238-2 江戸と直結した水運の出発点--猿田河岸
足利の織物が桐生と比べて変化が大きかった一つの理由は、江戸時代を通じて最大の消費地であった江戸と直結していたということもあげられよう。
足利の町を抜いて西から東へと流れている渡良瀬川は、しばらく下ると利根川に合流し、江戸川を経て江戸にと流れる。この流れを利用した水運のルートが確保されており、このための河岸が早くから設けられ、問屋も多く生まれ、猿田河岸が大いに繁盛していたのである。
猿田河岸から江戸への上りは流れに任せて約2日、逆は約10日間かかったという。下りの2日は、荷駄で江戸の運ぶより早く、渡良瀬川の最上流ということもあって北関東・東北からの荷を集めて、大いに隆盛を誇ったようだ。
猿田町にある徳蔵寺は古くからある寺で、江戸時代から明治にかけて隆盛を誇った多くの回船問屋の菩提寺でもあったようだ。
徳蔵寺には、かつての河岸の隆盛を伝える歴史が今昔物語として掲示されていて、そこにはこんなふうに説明されている。
この地は江戸初期(一六〇三)から明治四十一年(一九〇八)頃までの足利の玄関口であり、この寺のある場所は昔ヤエンダと言われアイヌ語の船着場として一一四五年猿田河岸(やえんだかし)が開かれ足利市やこの地区一帯の特に織物業の貿易場として、栄えた。
江戸時代は、五軒の回漕よろず問屋がありその中心が萬心で渡良瀬川~利根川を利用して江戸(東京)、名古屋ヽ京都、大阪へと交流を持ち各地からも多くの品々や食文化も受け継ぎ、中には大きな寺院の瓦・鬼瓦まで運び込まれました。
やはり機を見て行う商売では、市場を制するのは臨機応変なロジスティクスというわけか。
猿田河岸の回船問屋、萬屋長四郎三の河岸にあった邸宅。右半分が居宅で左の部分が回船問屋としての仕事場のようだ。
渡良瀬川のかつて河岸のあったあたりの風景。いまは水量も減って、とても船を乗り入れる水深ではない。河川敷は公園として利用されている。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸