238 足利の赤レンガ・石造り織物工場
■桐生から最新技術を導入
足利の織物の歴史は古い。東大寺の大仏開眼(752年)に際して献上されたという記録があり、徒然草第216段にも足利の織物が登場する。
当時すでに足利の織物がそれなりの評価を得ていたことがうかがえる。
足利の織物のルーツをたどれば、隣の桐生に源を発する。
京都から東山道を通って桐生に伝えられた織物技術は、郊外へ広がるなかで足利に伝えられた。足利は栃木県でありながら、群馬県の桐生や太田などの自治体と関係が深いのは、そのためである。
足利の織物産業の一つの特徴は量産に強いこと。
江戸時代の中頃に、西陣から桐生に高機が伝えられた。座織りに比べて生産性の高いこの技術を、桐生は足利に伝えることをためらったが、隠すことは不可能。
やがて足利にも知られるようになり、高機は瞬く間に足利に広がり、足利の生産量は一気に増えた。
■高級品からボリュームゾーンへの転換を目指し工業化
織りの技術を桐生から導入しながら、足利は、絹一辺倒で高級品を目指していた桐生と差別化を図り、より需要の多い、いわば大衆向けのボリュームゾーンを指向した。
そこには、技術や質の面で桐生との競合を避けたい、増えた生産量を支えるために、需要を大きく掘り起こしたいという、産地の生き残りをかけた課題もあったと思われる。
こうした足利の<高級品から量産品へ>の転換は、明治以降の近代化=工業化という時代背景を受けて、足利を有数の機織産地として成長させることにつながった。
明治時代になると、明治10年にいち早くジャガード織機を導入したり、さらに撚糸機の自動化に取り組んで、明治11年には初めて民間の機械系撚糸工場を立ち上げるなど、その本領を発揮し、工業化への道に先鞭をつけてきた。
■時代とともに変わる足利の生産品
量産化とともに足利のもう一つの特徴が、扱う素材の多様性である。
足利の機織業者が扱う素材は、時代によって大きく変化する。
江戸時代には絹織物を扱ってきたが、明治から大正時代にはそれに綿が加わって、絹と綿・交織織物へと変わり、手作業から機械化へ。
昭和になると絹の国内向け<足利銘仙>、輸出向けの人絹・絹シャツ地へ、そして戦後は、トリコット、合成繊維へと変化する。
こうした変遷は、大きな影響を及ぼす。
素材・加工に合わせた古い設備を新しい設備に更新するために、旧来の設備が残りにくいのである。
古くから日本を代表する織物の産地でありながら、常に変身を続けてきたわけである。繊維関連の遺産が少ないのはそうしたことにも一因があろう。
足利の繊維産業の歴史(足利織物伝承館)

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸