237 織物の守護神?――織姫神社
JR足利駅を出て西に数分も歩くと、日本最古の学校といわれる足利学校、足利氏の屋敷であった鑁阿寺がある。そのさらに先、小高い丘の上に織姫神社がある。
『足利来るなら織姫様の 赤いお宮を目じるしに カラリコトントン カラリコトン 足利絵の街 機の街』と足利音頭に歌われた足利織姫神社である。
織物の町・足利の「織姫神社」とは、また、なんとはまりすぎ、それらしい名前であることか? 後付けのなんちゃって社名ではないのか、などと失礼にも不遜なことを考えてしまうのは、悪い癖だが、いったんそう思うと、気になって仕方がない。
調べてもなかなか命名の由来が出て来ない。で、織姫神社に伺ってみると、なんと、頂いたパンフレットにそのまま紹介されていた。
当織姫神社の祭神は、太古の昔より機織を司る天八千々姫命(アメノヤチチヒメノミコト)・天御鉾命(アメノミホコノミコト)の二柱の神様でございます。
この二柱の神様は、もともとは皇太神宮御料の織物を織って奉納したという伊勢国渡会郡井出(イセクニワタライグンイデ)の郷、御織殿の祭神でした。
千二百年余の歴史と伝統を誇る機業地足利の守護神として、一七〇五年にこの二柱の神を勧請し、その分霊をお祀りしたのがこの織姫神社でございます。
ということで、一件落着。失礼しました。そうなれば、富岡製糸場から始まった絹産業を訪ねる道は、ここにご挨拶せねばなるまい。
さらに詳しく聞いてみると、1705年には八雲神社境内社として機織りの姫様を祀り、明治十二年に現在地にあらたに社を建立してお祀りしたとか。ところが、建立された社は翌年には焼失してしまったため、しばらくそのままであったが、崇敬者が集まって、織姫神社奉賛会を組織し、昭和12年5月に現有社殿の威容が完成したそうだ。
1705年は宝永2年。時代の流れで見れば、元禄-宝永-正徳-享保と続く中で、元禄の狂乱景気から次第に景気が悪化し、どん底で紀州藩から吉宗が起用されて享保の改革が始まる中でのことだ。
まだ浮かれた景気のなかにあるものの、この年、京を中心におかげ参りが流行した。京との関係も深かった足利の織物業者の中で織物に関係の深い神様をまつろうという動きが生まれたのは自然の成り行きともいえよう。
昭和12年に再建されたお社は、珍しい鉄筋コンクリート造り。現在は国の登録有形文化財に指定されている。朱塗りのお宮が背景の織姫山(機神山(ハヤガミヤマ))の深い緑に映えて目に鮮やか。足利を代表するシンボルとして、夜はライトアップされている。
階段を上がって振り向くと、天気が良ければ境内から正面に富士がみえ、関東一円を遠望できる。景勝の杜でございます。ウォーキングマニアにはよく知られているが、関東ふれあいの道、はここが起点になっている。
足利は、足利幕府の出身地でもある。一時代を築いた足利一族の故郷だけあって、由緒ある神社仏閣もたくさんあり、最近では御朱印集めの聖地ともなっている。
足利は蕎麦の街で、いまでは全国にある一茶庵系のお店発祥の地でもある。市内には、おいしい手打ちそば屋さんがたくさんあり、織姫神社の境内にも、そば屋さん「蕎遊庵」がある。一茶庵の創始者片倉氏の愛弟子が経営するお店なので、昼においしい手打ちそばいただくのもいい。
織姫神社、昭和12年に再建された当時としては斬新な鉄筋コンクリート製。
社務所。こちらも社殿とともに昭和12年に作られた。こちらも含めて有形文化財として登録されている。
高台になっている境内に229段の階段を上って振り向くと、眼下に関東一円が遠望される。晴れると富士山も見える。ここが関東ふれあいの道の出発点になっている。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸