ものづくり 日本の心

これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。
発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。

220 武士のいのちを研ぐ砥石の名産地–南牧村

 富岡製糸場のある地は、もともと砥石のデポを作る目的で整地された土地であったが、それが大政奉還されてつかわれなくなったために、製糸場に使われるようになったことはご紹介した。
富岡から信州姫街道(下仁田道)と呼ばれた国道254号、西上州やまびこ街道を西に進むと、ネギとこんにゃくで知られる下仁田町にでる。
上州電鉄の下仁田駅付近を左に折れて県道45号線を進むと南牧村に至る。
南牧村は養蚕も盛んだったが、同時に砥石が採掘されたことから徳川の時代になると幕府直轄の天領とされ、南牧で採掘される砥石が幕府の御用砥とされた。
逆に言えば、その占有権を持ちたいがために幕府が直轄地としたわけだ。
刀剣が、武器としてだけでなく工芸としても高度に洗練されていく中で、砥石がいかになくてはならないものであったかを物語るものだ。

最盛期は、砥石の採石と搬出に500人が携わっていたという。
その地で、代々砥石を彫り続けてきた浅川礼太郎さんに、かつての採石場のあたりをごあんなに頂いた。
浅川家は、砥沢村の村長なども何代か務めたような名家で、先祖代々採石場の経営もされていた。200~300年前に採石していた採石場跡等もご案内いただいた。ご自宅の裏には石を加工する工場がある。
「私の素祖父、祖父、父親の時代までは砥石を切り出して、多くの人が仕事をしていました。かなりの人数がそれで生活をしていました。戦後もしばらく砥石は事業として行われていましたが、平成になるころにはほとんど事業としては成り立たなくなっていました。使われる量がなくなってしまったのですね」
 お話を聞きながら見せていただいたのが下の、最盛期と思われる頃の写真である。
採石場跡は、切り出した石の壁が屹立し、夏草が茂る現場は、まさに兵どもが夢のあと、そこまでの道は、澄んだせせらぎが道と並行して流れ、何とも自然の豊かさを感じさせるような道のりだ。
川原におりると、流されてきたであろう、小さな砥石の破片が砂利とまじってそこここにころがっている。砥沢という地名の由来がよく分かる。

浅川さん宅に、職人が彫ったという砥石の人形が浅川さん宅に飾られていた。
 採掘された砥石の一部は、旧尾沢小学校の校舎を利用した南牧村の民俗資料館にも展示されている。
 楽譜が崩壊した後も民間が変わって、砥石に切り出しを続け、商品名もそれぞれ会社ごとにつけられていたようだ。ここでとれる砥石は、種類としては「中砥」だという。
南牧民俗資料館にも、採石された砥石などが展示されている。
また、同館に至る南牧川沿いの県道45号線は、両側に木造2階建て家屋が連なるかつての面影を残す数少ない街道だ。このたたずまいもぜひ保存しておきたいものだ。


砥石採石場の跡。江戸時代には露天で掘られていた。上野砥石と呼ばれ、質としては中砥といわれている。


浅川礼太郎さん。砥沢の歴史を語れる数少ない人だ。もう、江戸時代から続く伝統の上野砥石の採石をリアルで知っている人は少なくなってしまった。何とか歴史を語り継いで残してほしいものだ。


かつて流通した上野砥石。


磨きだされた砥石。いまでは浅川さんがわずかに道の駅などで販売するだけになっている。


戦前まで、砥石の採石は事業としてはしかりと管理され行われていた。


採石道具。浅川さんのお宅に今も残されている。


南牧村のほぼ真ん中あたり、街道沿いに残るむかしのままに街並み。こうした光景も、そのまま残してほしい気がする。


砥石の職人が彫った人形。素朴だが力強い彫りは、なかなか魅力的だ。

梶文彦 写真

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。

梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。

写真撮影:谷口弘幸


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