219 富国強兵への期待をになった中小坂鉄山跡(下仁田町)
荒船風穴から富岡へ、国道254号を東に向かって下仁田町に出る手前、下仁田町中小坂(なかおさか)の左手に中小坂鉄山跡がある。
通りを入らないと看板が見えないので見逃しそうだが、幕末-明治の産業近代化の苦闘の歴史を語るときには欠かせない施設なので、見ておきたい。
日本では、古くから砂鉄を利用した「たたら製鉄」が行われてきた。
これは刀剣用の鋼づくりに合わせた工法で、世界的に、純度の高い鋼づくりの方法としては高く評価されているが、残念ながら、たわんでも折れない強靭さという点で大砲や軍艦などに使うには向いていない。
ペリーの来航以来、政府にとって大きな課題は、富国強兵のための軍艦や大砲づくりであり、鋼とは違った構造物に合った鉄づくりであった。
そのためには、鉄鉱石から高温で精錬することが必要であった。砂鉄から作るたたら製鉄ではそんな鉄材はできない。
そこで目をつけられたのが、中小坂鉄山の鉄鉱石であり、これを使って高温で精錬することで、構造材が作れないかということだった。
■大砲づくりに挑んだ“つわものたちの夢の跡”
幕末、ペリーの来航によって大砲で脅されて以来、国防意識の強かった水戸藩は、独自に大砲を作ろうと、蘭学書などを研究し、那珂湊に反射炉を設置した。
その水戸藩の反射炉の資料に、
「安政三年(1856年)、上野国小坂村祖山(又は始山とも言う)より産出の磁石性鉄鉱を準備しおいたのを使用して、まず五六十貫目くらいの小型「モルチール」砲より鋳込みを開始した。鋳込みにあたっては、並々ならぬ苦心を要した。そして出来上がった銃棒を柳澤の水車場に運んで錐入れを成し、その大砲をば祝町海岸の渚に於いて試射をしたのであった。」
と書かれている。
1974(明治7)年には、ここ中小坂に洋式の高炉を備え、蒸気機関を利用した近代的な製鉄所を作り、製鉄に成功している。
その後、中小坂鉄山は民間に払い下げられたりしながら事業を続けたが、埋蔵量に限界があったのだろう、1909(明治42)年には操業を停止している。
鉄材がのどから欲しかった第二次大戦中は、再度ここが注目され、鉄鉱石の採掘のみが行われたが収穫量は、戦況を変えるほどの量ではなかった。
現在、坑口やトロッコ道跡の一部があり、殖産興業をめざして大砲づくりに苦闘した兵(つわもの)どもが夢の跡をしのぶことができる。
中小坂鉄山跡の案内看板。いまは建造物などもなくなり、勝手をしのぶ材料は少ないが、それでもトロッコ跡などが隆盛を誇った往時を想像させる。
かつての中小坂鉄山風景。近代産業の一つであり、外国人を雇用して操業を行っていた。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸