205 世界でも最大規模の製糸工場
大きな繭倉庫、繰糸工場はの構造は、木で骨組みを作りその間に煉瓦を積んだ木骨煉瓦造。煉瓦の長い面と短い面を交互につなげ、それを各段でずらせたフランス積みと呼ばれる積み方が採用されている。
1870年(明治3年)秋に工場建設が計画され、1972年(明治5年)7月に工場が完成。工期は3年弱、設計図は横須賀製鉄所を設計したフランス人のオーギュスト・バスチャンがわずか50日で描き上げたという。
蒸気を使った器械製の繰糸装置はフランシスから特注で輸入した。煉瓦も作ったことがない瓦職人を深谷から集めて試作から、という状況の中で、
・東西の倉庫合わせて450立方メートルの繭を貯蔵、
・蒸気窯6座を擁した蒸気窯所、
・鉄製の繰糸器械300台を備えた繰糸工場、
・女工用の宿舎、
・鉄水槽
などを作り上げた。
当時でも世界最大規模の製糸工場である。
もちろんこの工事を行うために多くのフランス人技師を呼び、私道を受けながら完成させた。使われた機械類はすべてフランスから輸入したわけではない。
まだ製鉄技術がなかったので鉄材はフランスから輸入したとしても、撤水槽や小さな蒸気機関などは、フランス人によって先行して作られていた横浜製鉄所や横須賀製鉄所で作られたものもかなりあったという。
現代の世であれば、細かい機材は周辺の専門会社に依頼するところだが、当時は作ってくれる工場がない。
というよりも、そもそも、鉄材を加工する旋盤さえ保有している工場が、長崎造船のほかに上記の2つの工場くらいしかなかった。必要なものはすべて自作しなければならなかった時代である。
かつてフォードが1903年にデトロイトで自動車会社を始めたが、1908年T型で大ヒットを遂げたとき、同社は鉄板から自分で作っていたから大変だったと聞いて驚いたことがある。
何のことはない、以下の自動車会社は、部品を作ってくれる会社があるからいいのだが、当時はそんな会社がないから、自分で作らなければならなかった、というのは、当時の産業構造から考えれば当たり前のことだったのである。
富岡製糸場も同様で、道具も、設備も、結局はすべて自分で作らなければならなかったのだが、先行する横浜造船所、横須賀造船所に頼るしかなかったのである。その意味では、両工場が同じフランス人によって運営されていたのは幸運だった。
工場を作るに際して、まず煉瓦を工面することが必要だが、先行して作っていた横須賀は遠い。そこで、まずは手掛けなければならなかったのがレンガである。レンガ造りにまつわる物語は「富岡製糸場の赤レンガ」――レンガ造りに見るものづくり強国職人の底力」でご紹介する。
フランスから輸入した繰糸装置は、スエズ運河はまだできていないから、南アフリカ喜望峰回りの船便である。
そんな時代に、わずか3年弱でこれだけの工場を作るそのスピードは、今考えても驚異的だ。
なぜそんなに急いだのか。実は急がざるを得ない理由があったのである。
・2438.jpg、2484.jpg
東繭倉庫、正門を入ると、正面にあるのが、東繭倉庫である。赤煉瓦造りで高さ14.8メートル、幅12.3長さ104.4メートル、当時としては破天荒な大きさである。全体を見るには、首を左右に振らなければならない。まずはその大きさをじっくりと実感していただくのがいいと思う。
工女としてここで働いた信州松代藩の家老の娘・和田英は、到着して工場を始めて目の当たりにしたときの印象を次のように記している。
「富岡製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思い舛程驚きました。生れまして煉瓦造りの建物など、まれに、にしき絵位で見る斗り、それを自前に見舛る事で有舛から、無理もなき事かと存舛。」(富岡日記・上毛新聞社)。初めて見る煉瓦造りの大きな建物に度肝を抜かれた当時の人々の様子が分かる。
壁面に使われているレンガは、長手面と小口面を交互に並べたフランス積み。ほかに、長手面と小口面を、段差を変えて交互に並べたイギリス積みなどがある。
キーストーン 倉庫入口の正面アーチ上部に「明治五年」のキーストーンがある。この煉瓦のアーチを支えるために、左右の柱にわざわざ添柱が付けられているのは、このアーチが後からつけられたものだからだろうか(7283-2.jpg)。
東繭倉庫内部 東繭倉庫は、1階が事務所、2階が繭倉庫として使用されていた。現在、1階は公開され、当時の様子を紹介する資料が展示されている。この巨大さは、西繭倉庫とともに、当初は5-10月とされていた養蚕期に繭を集めて、年間を通じて製糸事業を展開するために必要だったとされている。
西繭倉庫のベランダから繰糸工場を見る

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸