202 富岡製糸場の誕生
開港したばかりの政府にとって最大の課題は、国防だった。
このころ、長崎に入ってくるオランダから、東南アジア、東アジア、さらには日本周辺に多くの船が行き来しており、アジア、アフリカなどは欧米列強の植民地獲得競争の餌食にされていることが伝えられていた。
和親条約締結を目指してやってきたペリーの黒船に脅されただけでなく、その後続いて、ロシア、イギリス、フランス、オランダ、スペインなどの軍船が、日本近くにやってくるようになった。それらの船は、千石船などと比べても圧倒的に大きく、巨大な大砲も備えている。彼我の戦力差は明らかだった。
イギリスに占領されている中国の情報も逐一もたらされていたので、同じようにならぬよう、早急に富国強兵が求められ、産業の近代化が必要だった。そのためには、資金が必要であった。
横浜で生糸が外国商人に売れると目をつけた政府が目指したのが、生糸の量産による輸出拡大だった。それまで生糸づくり農家の副業として手作業で行われていた。これではとても量産はできない、
養蚕の奨励と生糸づくりをめざし、機械化された製糸工場の建設が急がれたのである。
こうして1972年、フランスの力を借りて設備を輸入し、フランスの技術者を招聘して富岡製糸場が作られた。
富岡製糸場は、フランスの技術を導入して作られた工場であり、類似の工場は西欧にはいくらでも残されているのではないかとの疑問を持たれるかもしれない。
富岡製糸場が遺産に指定された理由は大きく2つ、一つは作られた1870年当時の技術をよくの残していること、2つ目は、この大きさの工場がフランスにも残されていないこと、の2つである。
日本の近代化の先がけともいうべき富岡製糸場、フランスの技術を導入しながら、日本らしい特徴がそこここに見られる極めて興味深い工場なのだ。
もちろん、長い間使われていた工場でもあり、中の設備は時代に合わせた更新されているので、当時、フランスから輸入した蒸気で動いた器械式の糸繰機は残されていない。しかし、工場の建屋を見るだけでも、当時の面影は十分に味わえる。
ここでは江戸時代から明治に移るまさにその変化の時代に、どんな工場が建てられたのか、ものづくりの視点で富岡製糸場を眺めてみる事にしよう。
上信電鉄・上州富岡駅から南へ数分、仲町の交差点を右に折れて門前町の参道のような通りを進むと目の前に巨大な赤煉瓦の建物が見えてくる。
江戸幕府から明治新政府に変わったばかりの明治5年、上州富岡の地に作られた官営の富岡製糸場だ。高さ14メートル、長さ100メートルを超える煉瓦造り。
この空前絶後のスケールから、圧倒的な周回遅れで列強との産業近代化レースに参加した日本が、ものづくり強国へとすすむ、その出発点の意気込みを知ることができる。
正面から参道のように続く道を行くと、正面に巨大な岸壁を思わせるような煉瓦造りの建物が現れる。その巨大さに見る人は肝を冷やし、西洋技術、近代産業のケタ違いの底力に、恐怖のようなものを感じていたのではないだろうか。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸