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ものづくり 日本の心

これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。
発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。

201 新シリーズ!<産業近代化の原点>富岡製糸場と絹繊維産業遺産

2014年6月に富岡製糸場と周辺の絹産業に関連する施設が、<富岡製糸場と絹産業遺産>としてイコモスにより、世界文化遺産に指定された。
明治5年に計画され、7年に稼働した富岡製糸場は、日本の産業近代化の原点ともいえる存在で、日本のものづくりの歴史から見ても、貴重な遺跡である。しかも、150年を経たとは思えないほど、しっかりと保存されている。
富岡製糸場の絹産魚遺産を訪ねてみる。

■植民地戦争のさなかに世界の舞台に
 長い間、世界の歴史の中で眠っていた日本が、目を覚ましたのは1853年、ペリーが浦賀に来航してからのことであった。
ペリーは、幕府に開港を迫るが、幕府は返答を拒否。1年後の回答を約束するが、ペリーは1年を待たず、翌年1854年1月にふたたび来航して回答を迫る。
江戸幕府は、大砲で脅される中で、交渉を拒否できず、横浜に上陸を認めてアメリカと初めて和親条約を締結することになる。その結果をうけて、英露蘭仏の5カ国と和親条約を締結する。
こうして日本は列強による植民地戦争の激しい世界史の中に飛び出すことになった。
和親条約を結んだことで、一気に多くの外国人が日本にやってきた。しかし、彼らは、日本にやって来ることはできるが、輸出入は許されていない。
幕府は、物資の自由な輸入は武器輸入を許すことになり、倒幕につながりかねないと危惧し、なかなか認めなかった。
そんな中、度重なる脅しに幕府も輸出入を許さざるを得ない状況になり、1858年、5カ国と貿易を促進するための修好通商条約を結び、翌59年に、函館、神奈川、神戸、長崎、新潟の5港を開港することを約束する。
 
■横浜開港で生糸に火が付く
神奈川の港とは、もともとは今の京急神奈川駅(青木橋)の近くにある洲崎神社の先にある神奈川港だった。
しかしここは東海道に直結しており、江戸からも近いことからここに外国人を寄せるのは危険であるとの判断で、急遽、神奈川港と称して開港したのが、山手から横に砂州が突き出た、戸数わずかに数十の横浜だった。
砂州が埋め立てられ、造成されてここに開港場と呼ばれる商店街が作られた。

政府から依頼された名だたる商人たちが一攫千金を目指して横浜の開港場に店を広げるが、何を売ったらよいか見当もつかない。
探るように産品を並べる中で、外国商人が競って買って行くものがあった。それが生糸である。こうした新港地・横浜に、全国から生糸商人たちが集まることになる。
生糸商人たちを引き付けたのは、何よりも値段だった。外国商人たちは、国内で売るよりもはるかに高く買ってくれる。

こうした話題が沸騰して、国内各地に「生糸が売れる」という情報がもたらされる。
この辺りの顛末は、島崎藤村「夜明け前」の第4章に詳しい。
「中津川の商人、萬屋安兵衛、手代嘉吉、同じ町の大和屋李助、これらの人たちが生糸売込みに眼をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃を出発してきたのはやがて安政六年の十月を迎えた頃である。・・・」。
7月に開港して、3か月後の10月には、美濃・木曽の商人が横浜で商売ができると見物にやってくる。この野次馬根性というか、好奇心の強さは、日本人の知られざる特徴でもある。
ご興味のある方は、ぜひ「夜明け前」を読まれたい。

■開港しても変わらない「海外渡航は御法度」
列強各国の強い要望に応えられず、幕府は5カ国と和親条約、修好通商条約を締結したが、では、これで日本と外国の間で渡航が自由にできるようになったかといえば、そうではなかった。
まだ、国内の法度としては、「日本人の海外渡航禁止」が生きているのである。だから開港して交易が始まったと言いながら、もっぱら外国人商人が日本の港にやってきて、持参品を売り、日本製品を買い付けるだけである。
1960年、万延元年に咸臨丸で福沢諭吉や勝海舟らがアメリカを訪問した、と歴史で学ぶが、これも幕府が認めた特例に過ぎないのである。
よく知られる開国談として、長州ファイブが紹介される。1863年に長州藩から派遣されてヨーロッパに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉の5人の物語だが、これもご法度の中、藩だけが認めた密航である。仲介したのが長崎駐在のグラバーだった。

■日本人パスポート第一号は軽業師
世界に向って和親条約を締結し、貿易も奨励したとはいいながら、日本人が海外に渡航することは許さないという何とも、中途半端な政策なのは、つまり、江戸幕府がこうした開国の全体像を明確に把握できていなかったということに過ぎない。
日本人の渡航が許されるようになったのは慶応2年(1866年)のことである。つまり、民間人にもパスポートが発行されるようになったわけですね。
栄えある日本パスポート第1号は、軽業師、独楽まわしの隅田川浪五郎一座だったという。慶応2年9月、アメリカ人興行師に雇われて、横浜から米欧に向けて2年間の興行に出たとか。
この興行は欧米で人気を博したそうですが、日本人庶民の好奇心は意外に強かったのですね。


横浜が開港され、開港場に多くの商店が開かれ、外国人商人でにぎわった。港近くの商店街風景。(横浜市立図書館)


いまの開港記念館のあたりにあった福井藩のパイロットショップ「石川生糸店」の風景。福井藩士だった父覚右衛門が藩命で出向し、生糸や地元産物を販売していた文久2年(1863年)、店の炭倉で岡倉天心が生まれ、幼名覚蔵(角蔵)と命名されたという(横浜市立図書館)。


神奈川港として開港したのは、山手から突き出た戸数数十の砂州漁村「横浜」で、急遽造成され、ここに開港場と呼ばれる交易場・商店街が作られた。

梶文彦 写真

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。

梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。

写真撮影:谷口弘幸


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