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ものづくり 日本の心

これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。
発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。

052>江戸湾への航路を照らした和式灯台・燈明堂

川間ドックから、さらに先に進むと、うらが道は久里浜に行く分岐点に出る。右に行けばトンネルを経て久里浜まで3km、この分岐点を左に進むと、約1kmほどで、江戸時代の灯台を復元した燈明堂のある燈明崎に行く。燈明崎には駐車場もあるので車でもいける。
浦賀湾の入り口に燈明堂がつくられたのは慶安元(1648)年のことだ。
家康が関が原の合戦で勝利すると大阪に代わって江戸に幕府がうつされ、全国から人や物資が江戸に集まるようになった。輸送には船が使われるが、東京湾の入り口、浦賀水道は潮流も早く、船頭にとっては頭痛の難所だった。夜間の航路の安全も問題になり、こうして作られたのが和式の灯台・燈明堂である。その後、幾度かの改築が行われているが、安政元(1854)年の安政東海地震後に再建された燈明堂が、平成元(1989)年に復元された。
構造は、高さ7.3メートル、石づくりの土台の上に木造2層の建物。上層は、四面に銅製の網が張られ鉄骨製の障子が嵌め込まれていたという。内部には燈明皿が置かれており、油を燃やすことで明かりをともしていて、菜種油などを燃やす明るさは、遠く房総半島からも確認できたという。堂内には堂守が常駐して明かりの管理をしていたそうだ。
ペリーもこの燈明堂の明かりを目安に航路を設定したと言われているが、1866年にアメリカ等と結んだ条約で、洋式の灯台を設置することがうたわれ、明治2(1869)年、ヴェルニーによって観音崎灯台が設置されたことで、燈明堂の役目は終了した。

東京湾に臨む燈明堂。遠くの房総半島からも明かりが見えたという。

木造2層の建物で、高さは7.3メートル。

この一帯はかつては浦賀奉行(船奉行)の処刑場だったとかで、供養塔が建てられている。

梶文彦 写真

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。

梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。

写真撮影:谷口弘幸


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