049>115メートルの造船台
浦賀橋梁のもう一つの目玉は、1号レンガドックに1年遅れて明治33(1900)年10月に完成した全長380尺(115メートル)のコンクリート造り造船台だ。造船台とは、斜面上のレールを海の中に引き込み、海水を遮蔽するゲートをつけてポンプで海水を排出できるようにしたもので、造船工場の設備としてはこちらがエースだ。
大きな船を作る手順は、①受注・設計から、②資材を発注し、③鋼材を加工し、④船体を溶接して組み立て、⑤進水させ、⑥艤装用岸壁に移して必要な機材を艤装し、⑦海上試運転後の完成・・・となるが、この工程で、④を担当するのが造船台である。
造船台のレールの上で船体を作り、できたところでゲートを開けて海水を入れ、斜面を滑り下ろして進水させる。船体ができたら、艤装用の埠頭に接岸して内装や上部を完成させる。経営的に見れば、ドック・造船台の稼働率をいかに上げるかが課題になるので、こうした造船手順で進められる。この造船台で数々の戦艦が作られてきた。
浦賀ドックは海軍工廠からの依頼で明治40(1907)年7月に駆逐艦「長月」を、9月に「菊月」(ともに長さ69m、381重量トン)を建造して以来、駆逐艦づくりでは定評のある造船所として、第二次大戦が終わるまで多くの駆逐艦を建造してきた。造船台の大きさが115mしかないために、小型の駆逐艦向きなのである。
その後、第5船台までつくり、第2船台が最大226mまで延長された。戦後には、船台のサイズをこえる大型のタンカーも建造しているが、一度には作れないので、前後2つに分けて作り、後で合体するという離れ業も行ったそうだ。
大型船を建造中の造船台はそびえるような大きさで壮観だ。塀の外からも見え、浦賀の住民たちも、毎日のように、どこまで完成したかと楽しみに眺めていたという。浦賀の街は、町ぐるみが浦賀ドックとともに生活を営んでいた。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸