横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流
7.浦賀ドック――世界でも希少遺産の2つのレンガドック
046>武士と町人が喧嘩――浦賀の二つのドックで
そもそもどうして浦賀に2つのレンガドックが作られたのか、いきさつを見てみよう。
浦賀は東京湾への入口に位置する海洋輸送の要衝である。享保5(1720)年には、江戸湾に出入りする船の積み荷を改めるために浦賀に奉行をおき、船番所を設けて積み荷を改めた。
開国後、幕府は自ら戦艦の建造をめざして、嘉永6(1853)年に浦賀湾にそそぐ長川河口にドックを作り、浦賀奉行与力の中島三郎助らに洋式帆船の軍艦鳳凰丸を作らせた。万延元(1860)年にアメリカへ出港前の咸臨丸を修理したのもこのドックだった。しかし、明治9(1876)年になると、幕府が横須賀製鉄所を建設したことから、この造船所は役目を終え、閉鎖されてしまった。
明治も中頃になると、産業も徐々に起こり、輸送を担う船舶への需要も急増し、民間資本で造船事業を行おうという動きも生まれてくる。東京湾口というロケーションの良さに目をつけて、浦賀への造船所建設を目指したのが、渋沢栄一が中心になった石川島造船所と、農商務大臣などを務めた榎本武揚らの2つのグループである。
石川島造船所は明治28(1895)年、浦賀分工場を設立して川間にドックを造り、31年から営業を開始する。一方、榎本武揚らのグループも浦賀船渠㈱を興して明治32(1899)年にドックを完成させる。こうして2社がほぼ同時期に、競うように浦賀に造船所を造るのをみて、明治28年3月8日の国民新聞も、さあ、どっちが勝つかとはやし、「浦賀に二大船渠、武士と町人喧嘩」と揶揄している。
結局この勝負、いざ営業を始めてみると、ダンピング合戦になって、両社とも営業的に立ちいかなくなり、明治35年浦賀船渠(後の住重)が石川島造船所を買収することで、決着がついた。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸