横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流
5.横浜製鉄所――横浜につくられた日本初の洋式工場
036>役目を終えて石川島平野造船所へ払い下げ
元治2(1865)年8月に創業した横浜製鉄所は、幕府が倒れた後、事業はそのまま明治新政府に引き継がれ、明治3年頃には日本人技術者も育ち、従業員160余名の大きな事業体になっていた。しかし、明治4(1871)年になると、横須賀製鉄所の工場設備も整備されてきて次第に機能するようになり、横浜製鉄所は準備工場としての役割を終えてゆく。
同年4月には、横浜製鉄所は横浜製作所と改称され、翌明治5(1872)年、横浜製作所は横須賀製鉄所とともに海軍省の主管になり横浜製造所と改名、12月には横浜製鉄所は大蔵省の管轄へと変わり、民間への貸与が行われるようになる。造船施設を持たない工場では、経営の見通しが立たなかったのである。
自前の営業をあきらめた横浜製造所は、その後、船舶修繕工場として郵便蒸気船会社、三菱会社などに貸し出されたが、最終的には、明治12(1879)年に平野富二が運営する石川島平野造船所に貸与され、横浜石川口製鉄所として存続することになった。そして、設備等は東京・隅田川河口にあった石川島製鉄所に移され、明治20(1887)年には同社に払い下げられた。これによって、石川島造船所の設備環境は飛躍的に向上し、同社は民間のトップクラスの造船所となった。当時の工場のあった石川島は、いまは住所標記で佃2丁目、もんじゃ焼きで知られる月島の隣町である。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸