横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流
5.横浜製鉄所――横浜につくられた日本初の洋式工場
033>横浜製鉄所の誕生
大型船の解禁とともに、幕府だけでなく諸藩も同じように軍船づくりを始め、水戸藩は嘉永6(1853)年江戸隅田川の河口に石川島造船所(後のIHI)を、薩摩藩は翌年には桜島に桜島造船所を設け、加賀藩は七尾造船所を作り、軍船などの建造を試みた。
佐賀・鍋島藩もまた、藩内の三重津に造船所を設けることを目指し、オランダに蒸気船建造用の機械類を発注し、オランダ人から蒸気船作りの指導を受けて準備を進めていたが、造船所を作るには莫大な費用が必要なことが分かり、自力での建造をあきらめて、購入した設備類を幕府に献上してしまった。
この鍋島藩から献上された設備を活かして造船所づくりを考えていた時の勘定奉行・小栗上野介がフランス公使のロッシュに相談。フランス軍艦のセミラミス号の乗組員が鍋島藩からの献上品を視察。これらの機械類では馬力が小さくて大型の軍船の建造には向かないことが判明。横浜近郊で小型船の修理に活用し、横須賀製鉄所のための機械づくりを兼ねて技術を習得した方が良いとのアドバイスを受けて、横浜に艦船修理施設を作ることになった。
横浜製鉄所設置の目的は、横須賀製鉄所設立原案によれば、以下のようになっている。
「横須賀製鉄所設立に先立ち、一の製作所を横浜にもうけ、現所有の工作機械を据え付け、もって艦船修理の工事を起こし、あわせて本邦人をして西式工業を習得せしむるにあり、このために仏国海軍士官を雇い入れ、その事業を担当せしむる。・・・」
そこで、横浜の本村に工場を建設、鍋島藩から献上された設備の他に、咸臨丸で渡った遣米使節団がアメリカで購入してきた工作機械などを持ち込んで据え付けた。
同時に、フランス人の技術者を採用し、横須賀製鉄所のための準備を兼ねたパイロット工場として、フランス語の通訳や工業技術の実習指導を行う目的工場を整備した。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸