横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流
5.横浜製鉄所――横浜につくられた日本初の洋式工場
032>江戸初期に大型船安宅丸を建造
日本は四方を海に囲まれている。船舶は基本的な移動手段として、秀吉の時代には、朝鮮戦役などで活躍した安宅船(あたけぶね)と呼ばれる大型帆船が作られていた。奥義は木割法として船大工棟梁に相伝された。寛永12(1635)年には、幕府は外皮を銅板で覆った竜骨の長さが125尺(38m)、幅53.6尺(16m)、推進力は2人掛りの艪が100艇という和洋折衷の軍船・安宅丸を完成させるほどになっていた。
幕府は、こうした技術が諸藩に渡り、軍船を建造されることに危機感をもち、以後、大型船の建造を禁止した。そこで日本の造船技術は止まってしまったのだった。
禁止令の解除とともに、幕府自身も造船をめざし、河口を利用した造船所・ドックを浦賀に設置した。翌年には洋式の木造帆船の軍艦「鳳凰丸」を建造するが、軍船としてより輸送船として利用されるだけで終わった。
結局、浦賀造船所は、造船をあきらめて修理場として活用されることになり、万延元(1860)年に、咸臨丸が太平洋を横断する前にメンテナンスをここで受けている。後にこの場所に、浦賀橋梁株式会社の造船所が建設されることになってドックも新設され、住友重工業㈱浦賀造船所へと展開してゆく。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸