横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流
5.横浜製鉄所――横浜につくられた日本初の洋式工場
031>技術の発展を阻害した大船建造禁止令
JR石川町駅の北口改札口を出て左(海側)に行くと、目の前に大きなマンションとスーパーマーケットがある。道を左に取れば、「西陽門」があり、ここを行けば延平門(西門)から中華街へ入る。西陽門の手前に車止めと右に花壇があるが、その花壇の中に「横浜製鉄所跡)と書かれた碑が立っている。
ここが、慶応元(1865)年8月に建設された日本初の本格的な洋式工場「横浜製鉄所」の跡地だ。周辺はさま変わりしていて、いまはわずかに碑が立つだけで、当時の面影はなにもない。中華街に行く人も、すぐ横に立つ碑の存在には目もくれず、素通りする。さびしい限りだが、100年前にここに日本初の近代的な工場があったとはだれも想像できまい。
前項で、横須賀製鉄所の準備工場として横浜製鉄所をつくり、そこで人材育成とともに横須賀製鉄所で必要な設備を製作したとご紹介した。その横浜製鉄所があったところだ。
建設に至るてんまつは以下のようだ。
嘉永6(1853)年6月、ペリーが巨大な蒸気船とともにやってきた。巨大な黒船の威力と高度な技術を目の当たりにした幕府は、諸外国の侵略に対抗するためには大型軍船の建造が不可欠として、同年9月には、寛永12(1635)年に武家諸法度で定めた「500石積(排水量約100トン)以上の軍船は建造してはならない」という大船建造禁止令を撤廃して、諸藩に大型の軍船の建造を許可した。しかし、いかんせん造船技術がない。そこで幕府が取り組んだのが横須賀製鉄所であり、そのパイロット工場としての横浜製鉄所だった。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸