横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流
4.横須賀造船所――140年間現役で稼働する石造りドック
025>効率の悪さがネックで戦争に間に合わない
明治17年には横須賀造船所を鎮守府直轄とし、錬鉄・鋳造・旋盤・製缶・組立工場の拡充・整備を図った。世界の戦艦が、木造艦から鉄骨木皮艦、鉄製艦、鋼鉄艦へと急速に変化しており、それに対応した処置だった。同時に、造船所条例が制定され、横須賀造船所は、海軍の艦船の建造・修理・艤装を主目的とすることが決められた。
こうして、建造能力が向上し、戦艦づくりに専念することになり、明治20(1887)年には鋼鉄鉄皮の砲艦「愛宕」(621トン)を進水させ、水雷艇や補助艦艇などを建造。さらには、鋼製の海防艦「橋立」、巡洋艦「秋津洲」を完成させるが、橋立の建造には6年間、秋津洲の建造には4年間と、長時間を要するという非効率ぶりだった。
海軍としては、折から始まった日清戦争(明治27(1894年7月~95年3月))などでも、自前の戦艦を使いたかったが、非効率な建造ペースゆえに生産が追い付かず、日露戦争(2004年2月~2005年9月)に至っても、主力艦船は輸入戦艦に頼らざるを得ないというありさまだった。
日本が世界に認められるきっかけとなった日露戦争の日本海海戦の主力艦船、旗艦三笠をはじめ、富士・八島・敷島・朝日・初瀬はすべてイギリス製で、三笠は15,140トン、速力18ノット、主砲に12インチ砲4門を備えた当時の世界最新鋭艦で、技術的にも、日本との格差が大きかった。
それにしても富岡製糸場や横浜開港で見せた機動力のあるプロジェクト管理力はどこへ行ってしまったのか、臨機応変な対応を拒む海軍という組織の宿命かもしれない。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸