横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流
4.横須賀造船所――140年間現役で稼働する石造りドック
023>自前ですべてをつくる総合工場
工事は、フランス人も驚くほどの急ピッチで進められ、造船台・修船台とともに、明治4(1871)年には石造り、全長137メートルの1号ドックが完成した。当時は、機械工場などが市中にないために、造船に必要な機材をすべて内作せざるをえず、敷地内には、鋳造工場、錬鉄(鍛冶)工場、製缶工場、製綱工場、製帆工場、型工場、船具・滑車・木工所などがある総合工場だった。ヴェルニー記念館に置かれているスチームハンマーも錬鉄工場で使われていたものだ。手始めに、十馬力船などの小型の蒸気船を作った。横浜製鉄所との間で機材の輸送に使う輸送船さえ自前で作らねばならない状態だったのである。
1865年に江戸幕府が始めた横須賀製鉄所は、1868年に明治新政府に引き継がれる。幕府の奉行を務めた小栗上野介が新政府によって斬首される一方、製鉄所は明治2(1869)年には大蔵省の管轄に変わり、翌3年には新設された工部省の管轄に。4年に横須賀造船所と改名し、やがて鎮守府が横須賀に置かれると、造船所は海軍の主力工廠になっていく。
明治時代初期には、民間の造船業が未発達なために、内国船や外国艦船の建造・修理なども行い、明治3年には、206トン、40馬力、積石約500石、乗客数100名の木製汽船「弘明丸」(後に青函連絡船に使われた)を完成させるなどしたが、海軍省の所属になってから戦艦づくりに傾斜する。
列強の侵略を防ぐための富国強兵政策は焦眉の急だった。
冷戦時代なら考えられないが、いまはgoogle earthで基地内の地図が誰でも見られる。当時の施設と、現在の位置関係を比較してみたのが以下の図だ。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸