横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流
2.ヴェルニー公園――軍港横須賀を見渡す歴史の公園
014>軍港横須賀の面影--長門を建造する技術力
ヴェルニー公園を奥に進むと、いくつかの碑石が置かれた一角があり、「海軍の碑」「戦艦長門碑」「軍艦沖島の碑」などが建てられている。明治以来、海軍は佐世保、舞鶴、呉などに鎮守府を置いていたが、なかでも横須賀は、筆頭の位置にある重要な軍港で、かつての海軍在籍者にとっては、それなりの感慨をもって思い出す聖地でもある。
帝国海軍の戦艦を上げると、現代では、大和や武蔵の名がエースのようにいわれるが、この2艦は、海軍が起死回生策として極秘の中で建造した戦艦で、報道も一切なし。国民にとって戦艦のエースは、連合艦隊の旗艦「長門」だった。排気量39,120トン、1920年に呉の海軍工廠で造られたあと、横須賀鎮守府に所属し、太平洋戦争を終戦まで生き残った。
当時最強とうたわれた英国のドレッドノートを越える性能を持っていたことから超ド級と呼ばれた、世界初の40センチ砲を備えた戦艦である。
碑文には、「ありし日の連合艦隊旗艦長門の姿をここに留めて激動の時代をしのぶよすがとする」と記されている。
長門は、戦争は生きのびたが、終戦後はアメリカに接収され、アメリカがビキニ環礁で行った原爆実験の標的にされて沈んだ。そうした長門の数奇な運命を悼むかのようだ。
軍艦は、当時の国の最高の技術を集めた、いわば、技術力の塊であり、軍艦を検証することは、その国、造船所の技術力を検証することでもある。西洋の産業技術を導入してわずか50年ほどで世界最先端の軍艦を作ってしまう、日本人の技術力もなかなかのものといえよう。
この、超ド級戦艦の長門を日本が独自に建造したことから、世界は日本の技術習得の速さに驚き、このあたりから日本の軍事力を警戒するようになってくる。長い歴史を積んでそうした技術を獲得してきた列強には、そのスピードは驚きだったに違いない。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸