「日本のものづくりは、世界の財産である」(84)|第七章 日本人の創造性と独創性 〜庶民の学習意欲は日本の伝統文化〜
明治維新当時、つまり江戸末期の識字率を見てみると、世界的にも日本は高い方だったというのは、世界に学者の共通認識でもあります。高い教育が施されていたといわれるアメリカなどでも、そうした教育が行われていたのはごく一部の人たちで、決して全体のレベルが高かったわけではありません。
一説に1850年ころの識字率は、
・ロンドン市民が20パーセント程度、
・パリ市民で数パーセント
と言われていますが、江戸の町では70パーセントを超え、日本全体でも40~50パーセントという説があります。
先進国である欧米諸国と比べても、江戸末期の日本人の識字率は非常に高かったのです。これを支えたのは寺子屋です。
「江戸時代は、一種の生涯学習社会であったと評価できる」と述べているのは日本女子大教授の入江宏です。そして、英国ノッチンガム大学の教授で成人教育学の権威であるE・トーマスは、日本の社会教育の歴史と現状を調査し、その特徴は市民教養教育にあり、それは日本の伝統文化に属するものであると紹介しています(「現代農業」増刊『すべては江戸時代に花咲いた』)。
寺子屋は、江戸時代になって幕藩体制が固まり、庶民が落ち着いて生活ができるようになって生まれました。最初は寺僧の余業のようにして京・江戸から始まり、次第に地方に広がって、1800年代には全国で1万5千件くらいに達していたといわれています。
井上ひさしの「京伝店の烟草入れ」(講談社文芸文庫)に、「化政期の貸本屋は600余」と書かれた一節があります。化政期(文化・文政期:1804~1829年)は、元禄と並ぶ文化の爛熟期で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などが発刊された時期です。
当時の貸本屋は、店を構えているというのではなく、棒手振りといっててんびん棒の前後に本箱をつけ、これを担いで町を練り歩き、得意先を回る訪問販売です。
武家屋敷や大店だけでなく、あるいは、長屋の井戸端会議にも出向いたかもしれません。瓦版が飛ぶように売れ、貸本屋が商売として成り立ったのは、それだけ文字を読める、レベルの高い成熟した読者がこの時代に多くいたということでもあります。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸