「日本のものづくりは、世界の財産である」(83)|第七章 日本人の創造性と独創性 〜近代化を可能にした読み書きの土壌〜
独創性に欠けると言われながら、日本は経済大国と呼ばれるようになり、科学技術の面でも、ノーベル賞の受賞大国に成長しました。いまにしてみれば、明治以来の道のりは、順風満帆とはいかないまでも、あたかも、あらかじめ設置されたレールの上を行くがごとく、予定通りに走ってきたように見えます。
千石積みの弁才船や櫓こぎの小舟しかなかった江戸時代末期の日本で生まれ育ち、巨大な蒸気船を前にした30代の若きサムライたちは、技術先進国欧米と競って、トップに並ぶ経済大国になるというゴールをなぜ描けたのか、そこへのロードマップをなぜ設定できたのか、わたしには、非常に不思議でした。
冒頭に紹介したように、1872年、岩倉使節団に参加した伊藤博文は、太平洋を横断して到着したサンフランシスコのホテルの歓迎パーティで、「西欧の科学を学び、日本は近い将来、トップに追いつき追い越したい」と豪語しました。
そして、明治の初期に若き政治家たちが目指した殖産興業という「ものづくりの国」への道程は、その後の経過を見ても分かるように、紆余曲折はあったもののほぼ目指したようなロードマップで実現されました。
いきなり文明社会の技術開発レースに、大きく周回遅れで飛び入り参加した日本が、トップに並ぶと宣言したその自信はどこから来るのか、大きな疑問でもありました。
明治維新を迎えて西洋文明が大量に入って来るに際して、それらをしっかりと受け止め、大きな混乱もなく導入・利用できたのには、それなりの土壌が必要と思います。
そうした土壌の一つとして、ペリーに「読み書きが普及していて」と指摘された教育程度の高さもあげられるかもしれません。
当時来日した多くの外国人たちが、表現が違っても口をそろえて「日本には読み書きできない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない」と言っています。この言葉は、多少割り引いて受け取る必要があるかもしれません。というのは、彼らの周りに集まってきた町人、農民が字の読み書きができるレベルは、名前が書けたレベルともいわれていますし、判断したのは外国人ですから、決して厳密な意味で、読み書きができたことを保証するものではない、ということです。
それにしても、幕末には、寺子屋が全国で1万5千軒もあったといわれています。現在の全国の小学校数の約2万と比較しても大変な数です。それだけ多くの町人の子供が手習いを学んだ、世界史的にも極めて珍しい教育大国だったといえると思います。
四ハイの蒸気船に玄関を叩かれて、開けてみたら自然科学の進んだ知識やその応用技術、さまざまな新しい文化が堰を切ったように入ってきました。
それらを見た日本人は、いずれも考えられない質の高さと物量の豊富さに驚き、その格差に圧倒されたことから、日本の社会は知識・文化レベルも低く、庶民には科学性もまったくなかったかのように喧伝されてきましたが、この時期に来日した外国人たちの目には、必ずしもそうは映らなかったようです。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸