「日本のものづくりは、世界の財産である」(66)|第六章 勤勉革命と能力主義の萌芽 〜遊民化する武士〜
一方、戦う専門家で武力を本職としていた武士も、徳川時代に入ってしばらくすると戦さがなくなり、主君に対して武力で奉仕するという本来の役割を果たすことができなくなってきます。戦闘の専門家として力を発揮する機会を失って、いざという時に備えた準備、つまり自宅待機が日常になります。
この状態を国際日本文化センター教授の笠谷和比古は、「戦争の軍役を奉仕するという前提で、主君から封禄を給付されているというのが武士の世界の原則だ。ところが戦争は一向に勃発する状況にはない。武士はずっと自宅待機の状態に置かれたままである。働かずとも俸禄や自分の知行地からの年貢収入は保証されているわけだから、遊んで暮らすことができる。・・・そんな意味のない、遊民的な毎日を送っていた。」(『武士道と日本型能力主義』新潮選書)と書いています。
新田開発に伴って、幕府や藩の行政も大きく変化していきます。
各藩では、検地が行われ、法律の制定、徴税制度、財政業務、消防や治安維持、道路などのインフラ整備、土地改良、治水灌漑、検地、人別帳の整備など、藩体制を運営するための行政制度が整備されてきます。
当然、武士の業務も、戦う兵士から、与えられた知行地、あるいは藩の領国を正しく治める行政担当者としての役割が大きくなってきます。
そうした行政を処理する役職や部署が設けられ、そこに家制度があてはめられます。人ではなく、「家」に役務が与えられ、代々受け継がれていく仕組みが作られました。
とはいえ、実のところ、処理しなければならない役務は多くありません。そのため、一つの役割に複数の担当者が作られ、勤務は、ほぼ二、三日に一日の交代勤務などというペースになります。背景に、主君を守る武術・戦さこそ本務であり、行政のしごとは余業にすぎない、と言う意識があり、行政実務軽視の気持ちが抜けきれませんでした。
しかも、処理すべき業務はそれほど多くはありませんから、登城をしても、時間を持て余すというのが実態だったようです。
役所に詰めても仕事がない、仕事をしないということが習い性になるのは自然のなり行きです。そうなると、作業を効率的に処理するよりも、出仕時間と退出時間を守り、いかにその間の時間を過ごすかということが重要な課題になります。
こうして、少ない仕事を多くの人間で処理するためのノウハウが蓄積されていきます。回覧、承認、許認可、稟議……業務がやたらと増えるのは致し方ありません。
これが、江戸時代を通じての武士=行政マンの労働の基本でした。勤務=業務処理ではなく勤務=始業-就業の間を在籍すること、という形式化です。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸