「日本のものづくりは、世界の財産である」(64)|第六章 勤勉革命と能力主義の萌芽 〜勤勉革命〜
日本人を語るうえで、勤勉、あるいはまじめ、というのはいまでも欠かせない要素になっています。そして、日本人の「勤勉」さはもともとDNAとして持っている特質だと、私たちは考えていましたが、どうやらそれはせいぜい第二次大戦後に獲得した行動様式に過ぎないということを、第一章で見てきました。
東京大学大学院経済学研究科教授の武田晴人も、工業化社会における日本人の勤勉さは、戦後になって獲得した労働のエートスであると書いています(『仕事と日本人』ちくま新書)。
そうなると、新しい疑問が生まれてきます。私たちが「勤勉=日本人のDNA」と思いこんでいる誤解は、どこから定着してしまったのでしょうか?
一方で、むかしから日本人は勤勉だったという専門家もいます。
経済学者で慶応大学教授だった速水融(あきら)は、早くから日本人の勤勉さに着目してきた学者の一人です。速水は江戸時代における農民の勤勉さについて、産業革命をもじって「勤勉革命(Industrious revolution))ということばで説明しています。
一般に産業は、労働集約型から始まり、成熟するにしたがって道具が利用され、次第に機械化・設備化されて生産量を増大させていきます。農業も同様で、最初は人手による作業が行われますが、やがて道具が使われるようになり、さらに家畜等の利用(設備化)で生産性を向上させていきます。道具を活用することで、生産性=時間・人当たりの収穫量を増やしていくわけですね。
ところが、日本の場合はそうではなかったというのが速水説です。
「江戸時代における農業技術の発展方向は、労働生産性の上昇をもたらすような資本の増大(=設備導入(筆者注))を通じてではなく、むしろ逆に、家畜という資本の比率を減少させ、人間の労働に依存するという形態をとった」というのです。(『近代移行期の日本経済』「近世日本の経済発展とIndustrious revolution」日本経済新聞社、新保博・安場保吉編)。
その一つの例として、江戸時代には作業を助ける家畜(馬や牛)はあまり利用されなかったと紹介しています。開発された道具は鍬や鋤、せいぜい千歯こき(脱穀機)や唐箕(とうみ:選別機)くらいまでなのです。
産業革命のお膝元イギリスなどの場合、技術発展の方向は、資本を絶対的にも相対的にも増加させ、逆に労働の占める比率を低下させるという方向ですすんだ、つまり、一単位当り投入される資本/労働の比率を高める性格のものであったが、日本は逆に、資本ではなく、より多くの労働力を投入して長時間激しく働く方向に進んだというのです。
速水は、この日本式の「より多くの労力を投入して生産量を増大させた」方式を、道具による改革である産業革命になぞらえて、「勤勉革命」と名付けているのです。
そして、「勤勉革命」の特徴は、なによりも、その労働が強制されたものではなく、農民たちの自発的な意志によって進められたところにあるとしています。つまり、年貢などの負担が大きいためではなく、農民がより多くの収穫を目指して自発的に勤勉になっていったというわけです。
この結果として、農民は隷属的な身分から解放され、農業経営に対して自身が責任をもつシステムになり、農業経営はもっぱら勤労によって維持・発展されてきた。「このような経験は工業化に際して大きな利益として作用した」と述べ、「一国の国民が勤労的であるか否かということは歴史の所産であり、日本について言うなら、それは17世紀以降、現在に至る僅々数百年の特徴なのである」(同)とまとめています。
つまり、速水は、ここで、農民は勤勉さによって生活水準を向上させ、それが工業化に際して、勤労的な国民にすることに作用したと述べています。
ここで速水が主張するように、もし、日本人が勤勉で、近代日本人が農民の勤勉さを受け継いでいたとしたら、明治初期に、工場で欠勤率21パーセントという工員や職人たちは、なぜ、その勤勉さを受け継がなかったのでしょうか。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸