「日本のものづくりは、世界の財産である」(50)|第四章 律令時代を支えた計数管理 〜律令時代の物流規程〜
寡聞にも、伊能忠敬以前の10世紀に測量をして地図を作成したという話は聞いたことがありませんが、中央の朝廷が租庸調雑徭の税額を算出するためにも、ある程度の面積計算や距離の算定が地図なはずですから、それなりの地図は作られていたということになります。
実測で初めて地図を作ったとされている、伊能忠敬をさかのぼること、1000年の昔です。測量、地図作成に関しては、日本の歴史からこのことが全く欠落しているのはどういうことでしょうか? 専門家の意見をお聞きしたいところです。
設定されていたのは距離だけではありません。
駅に設けられていた伝馬を管理する部署もあり、伝馬を使用する際の規定なども明確に定められていました。
このほかに、
・運搬人に支給する運搬中の食糧の米の量は、出発より官に納めるまでは1日米2升(当時の1升は4合)、塩2勺、帰りの工程は半分(荷物なしで軽いから支給量は半分)
・陸路の荷馬一頭の運賃、産品ごとの1頭のウマへの荷駄の積載量
・米一石当たりの船賃、水手の賃金
・運搬人の日当
・海路を使う場合の水夫への手当、積載量
……など、さまざまなものが「諸国運漕雑物功賃」として細かく決められているのです(『延喜式』「主税式」巻26・27)。
こうした数量規定はさまざまな分野に及び、例えば、高級絹織物を織り、染色などを行う織部司について、「織部式」の中で、機織作業の作業者の定員から、
・高級絹織物の一疋(長さ5丈1尺・広さ2尺2寸)あたりの原糸量、
・織手の数、
・一日あたりの法定工程量
などが、長功(夏の長時間働ける日)、短功(冬の短時間しか働けない日)に区別して設定されています。
これらの数量規定は、もとはと言えば中国の隋・唐のものをまねて制定したものです。しかし、ここまで細かいものは中国にはありません。
この詳しさは、当時の時間感覚や管理レベルから考えると、緻密さは何と表現したらよいのだろうか、驚異的ではありませんか。現代の旅費規定にも匹敵しますね。こんな緻密さで業務管理が行われていたことに、驚きます。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸