「日本のものづくりは、世界の財産である」(42)|第四章 律令時代を支えた計数管理 〜公平な一日の仕事量〜
ものづくりの世界では、数値を基本にした科学的管理法が行われはじめたのは、F・W・テイラー(米:Frederick Winslow Taylor)らとされています。
1881年ころ、ミッドヴェール製鋼会社の機械工場では、親方が出来高を算出し工員の給与を支払うというやり方が行われていました。
そして、親方の個人的な裁量による給与の算定法に工員たちの不満が絶えませんでした。工員が努力をして出来高を増やせば、親方は賃率を切り下げて給与を調整するということがたびたびくり返され、そのことに不満を持った工員たちがストライキで対抗するということが繰り返されていたのです。
23歳の若さで工場長になったテイラーは、工員たちも納得する公平な一日の仕事量を設定できないかと考えました。そこでまず、工員たちの作業を分析し、最も作業のしやすい作業手順を決め、標準的なスピードで作業したときに仕上がる出来高を算出してみました。
そして、それを公平な一日の作業量として、出来高×1個当たりの単価で給与を算出することを始めたのです。
出来高と給与の関係から親方の裁量を外すことで、数値的に明確にしたわけですね。この結果、工員の給与額が誰にでもわかるように数式で決められるようになり、工員の不満も解消して、生産性も向上しました。
この時に設定された標準的な作業手順、一日の作業量が、のちに作業標準や標準時間として多くの工場でも導入されるようになりました。彼が科学的管理法の創始者と言われるゆえんは、仕事の進め方と管理に「標準」の考え方をもたらしたことによります。
テイラーがミッドヴェール製鋼会社でこの賃金算出法の改革を行った1881年は明治14年です。まだ日本では、富岡製糸場に続いていくつか工場ができ始めたところで、作業を分析し、賃金を科学的に設定しようという流れにはありませんでした。
富国強兵の最先端、長崎造船所のエネルギーを支えてきた長崎市の高島炭鉱などでも、賃金への不満から労働争議が頻発していましたが、科学的に賃金を決めるには程遠いレベルにありました。
私たちがもっている日本人のイメージから考えると、こうした状況の中で、テイラーがやったような数値で把握し、標準化を進めるようなやり方は、あまり得意ではなさそうに思えます。戦後、マネジメントに科学的管理法が取り入れられるまでの日本は、雇用者と被雇用者の関係性が重視され、数値による管理などむしろ否定的にみられていました。
しかし、一般に広がっているこうしたイメージは、本当に正しいのでしょうか。古い書物などよむと、そこから浮かび上がってくる私たちの祖先は、私たちが感じているイメージと裏腹に、決して大雑把などんぶり勘定を得意とし、数値による緻密な管理をないがしろにしてきたわけではないようなのです。
たとえばその資料の一つが、東大寺正倉院に残されている、文書(もんじょ)に記されて残されている、700年~800年ころの奈良-平安時代の仕事の実態です。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸