梶文彦の「ものづくり 日本の心」(36)|第三章 豊かに広がるものづくりの世界 〜清濁を併せのむ美意識〜
わたしたちは、美しさに対する感覚や意識を「美意識」と呼んでいますが、フランスやイギリス、ドイツなどでは、こうしたものは「美学」Aestheticsとして扱われます。
西欧文化で「学」であることが、日本人にとっては「意識」なのですね。
言い方を変えれば、西洋の美学は、「学」である以上、鑑賞者・受け手に無関係に「美」が存在しますが、日本人の言う美意識ということになれば、意識する受け手を抜きには語れません。日本流に言えば、美しさそのものが存在するのではなく、見た人間が美しいと感じるから美しいのだということになります。
西洋の「美学」の基本に合理がありますから、美醜に対する評価と価値づけは学問として体系的にでき上がっています。だから「美」に対する評価に比べて「醜・キッチュ(まがいもの、俗物)」に対する評価は厳しいものがあります。
それに対して、日本人の美意識は美しいものに対してだけでなく、キッチュに対しても寛容だといわれます。崩れた魅力もまた、美意識を刺激する一つの要素でありうるということでしょう。
私たちはよく、「日本人は合理だけで生きていない」などと口にします。また、清濁を併せ呑むという言い方もあります。美意識の中の、キッチュをも容認する精神には、いわゆる西洋式一神教の合理基準とは違った、「万物に八百万の神が宿る」とする日本的な合理、融通無碍な基準が働いているのではないかと思います。
原因と結果をつなぐラインの中で、有用なものだけを直線で結んだ単線的な西洋流の思考にくらべて、遊びやムダ、迷い、遠回りなども包含しながら、さまざまな形状のラインを緩やかにつなぐ思考が、日本人にはあるような気がします。
台湾出身の物理学者で文明史家の謝世輝は、「西洋の近代合理主義は貫徹性があり、全てのものを科学的に処理していくが、日本の合理主義は不分明で、心情的な解釈と処理に終わりがちである」と述べ、さらに、「日本の合理主義は、理性ですべてを割り切ってしまうことはしなかった。人間は自然の一部分であり、自然にしたがい、自然との調和が重視されてきた。・・・日本では自然は温和で美しいものと考えられていた。日本人の自然観には、常に美的情緒がともなっていたのである。
そのために日本の文化伝統では、人間と自然が融和し、その中に血の通う造形作品が絶えず生まれてきたのである。そのため、元来の日本の合理主義は、自然と人間を温かく包み込むものであった」(『日本近代二〇〇年の構造』講談社)と述べています。
日本人は論理の正しさだけに走るのではなく、論理と感性の狭間にある微妙な揺れを容認しながら、解を見つけてゆこうとします。このあたりに、論理を第一義に重視する西洋の合理主義との違いがあります。
ものづくりの現場で、苦し紛れの最後にひねり出される問題解決の工夫なども、こうした論理だけでは思いつかない発想が重要なポイントになって生まれるケースも少なくないような気がします。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸