梶文彦の「ものづくり 日本の心」(30)|第二章 日の丸演説―日本のものづくりの出発点 〜世界のパラダイムを変えた日本のものづくりの力〜
西欧を目指して追いつけ追い越せで突き進んできた日本は、その猪突猛進の勢いのまま第二次大戦まで突っ走ってしまいました。軍事力で列強に並んでからの迷走ぶりは、いかんともしがたいところがありますが、目標を決めてゴールを目指す時に発揮する集中力とパワーは、列強に対して日本という国の潜在力を強く意識させることになったと思います。
しかし、世界一の軍艦を建造したといっても、実態は付け焼刃で、インフラの整備や社会的な蓄積は金メッキのような薄っぺらなものでしかありませんでした。キリのような鋭角な切っ先に全リソースを投入して一点突破には成功しても、そうした力や資産を社会全体に配分して、底辺の底上げにつなげるという方向には使われませんでした。
国策として力を入れ、獲得してきたその技術力や経済力を、列強に伍して領土拡大に投入するのではなく、国民の福祉と生活の向上につなげていれば、日本はまた別の国になっていたかもしれません。しかしそれはいまだから言えることで、当時はそんな状況ではなかったようです。
大航海時代以後、世界をリードしてきたのは、欧米の国々でした。一九世紀後半に欧米諸国が集まって作った国際法「万国公法」では、欧米の「文明国」は、アフリカなどの「非文明国」や、アジアの「半文明国」に対しては、不平等条約などをもって国交・通商を迫り、万一それを拒む場合には、武力によって受け入れさせることが正当な行為として認められていました。
そのため、彼らは競ってアジア、アフリカ、南米へと進出し、植民地化を進めました。
ペリーが1853年7月に来航し、一年後の回答を約束させながら半年後の1854年一月に再びやってきて、条約の締結を催促した裏には、こうした文明国の半文明国への恫喝があったわけです。植民地化の危機は、日本にも迫っていたのです。
世界史的に見れば、それまで、欧米以外の国が、列強に伍して政治・経済・技術面で台頭してきたことはありませんでした。そんな時代に、半文明国とみなされていたアジアの一小国である日本が、開国以来、急速な発展を遂げて、世界の舞台に飛び出し、自己主張を始めたのです。
彼らにとってみれば、圧倒的な力の差で面倒を見ていたはずの幼な子が、あれよあれよという間に大きくなり、力をつけてやがて背伸びを始め、気が付けば、おれの方が強いぞと分け前を要求するまでになっていたということでしょう。
力をつけてからの国のあり方に議論はあるとしても、経済力で「半文明国」とさげすまれていたアジアの中から、初めて日本が列強の仲間入りをしたという事実は、世界史的にもそれなりの価値と栄誉を持って語られてもいいのではないかと思います。
そのベースとなったのが、私たちの先輩が培ったものづくりの力でした。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸