梶文彦の「ものづくり 日本の心」(23)|第二章 日の丸演説―日本のものづくりの出発点 〜攘夷から開国へ180度の転換〜
この後日本は、1967年の王政復古を受けて、68年に薩長土肥を中心とした新政権が誕生しますが、攘夷を掲げて奪取した新政権は、政権を取ると幕府の政策を踏襲し、富国強兵策を柱にした開国へと180度転換します。
国をリードする根本政策が、政権奪取後に大きく変わるのですが、このあたり、与党の政策に反対したマニュフェストを旗印に選挙戦に挑みながら、政権を取った後は、すっぱり主張を忘れてマニュフェストとは真逆の政策に舵を切る、と現代風に翻訳してみると、なにやらどこかで聞いたことがあるようなお話になります。それがあまり大きな問題にもならずに通ってしまうところは、日本人の国民性なのかもしれません。
とはいえ、ヘアピンカーブさながらの急転換を行ったことで、維新政府はその後の政策運営に苦慮することになります。
しかし、開国・富国強兵と決めてからの思い切った対応で、こうした苦境を見事に乗り切ります。一つは、江戸時代に培われた日本人の基本的な素養・能力が、大きな転換にあたっても十分に対応できる高いレベルで確立されていたということ、さらに、国のかじ取りを担当したのが、怖いもの知らずの30代の若い世代だった、という要素もあったはずです。
そして、維新直後の明治4年(1871年)11月12日、岩倉具視を大使として欧米に使節団がでかけます。
新しい政府が組織されて、やっと廃藩置県が行われたばかりのころです。
藩が廃止され、藩から禄をはんでいた武士たちは職を失いました。幕府の家来、幕臣も同様です。全国の侍たちが一挙に職を失うことになるわけですから、何とか生きる道を考えてあげないといけません。
新しい国のスタートにあたって、やることは山積している状態で、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚房という最高首脳がそろって国を留守にして、海外の視察に出かけました。
使節団総勢46名、これに随従が15名、官費・私費の留学生42名を加えて総勢103人の一大デレゲーションです。しかも期間は1年9か月。欧米事情を知りたいという気持ちは分かりますが、これを意思決定し、実行した当時の首脳たちのとてつもない好奇心、向学心、そしてなによりも胆力に驚きます。この視察の成果は「特命全権大使米欧回覧実記」として報告されます。
名前は「特命全権大使」となっていますが、実は、天皇陛下からの信任状を持参していないことをアメリカから指摘されて、あわてて取りに帰国するなどの失態もあり、その後は、全権大使の公式名を外し、「使節団」と称しています。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸