梶文彦の「ものづくり 日本の心」(21)|第二章 日の丸演説―日本のものづくりの出発点 〜脅しに屈して不利な条約を締結〜
狂歌では四杯のジョーキセンとうたわれていますが、正式には、蒸気船は2杯で、残りの二杯は蒸気船に曳航された帆船でした。それにしても秀逸な狂歌ですね。後から作られたものではないか、という説がありましたが、どうやら同時代のものだという資料が見つかったようです。
現代なら、たちまちマスコミが騒いでコピーライターとして時代の寵児になっているでしょう。これだけの歌が読み人知らずとは、評価が低い。日本人がいかに、サブカルチャーをないがしろにしてきたかを物語っています。
話がそれました。悪いクセです。本文に戻しましょう。
江戸幕府は長い間、海外との交易を厳しく制限していました。その間も出島にはオランダ船が来航していましたし、唐船も来ていました。しかし、いずれも帆船です。
お茶の輸入競争で、新収穫された新鮮なお茶の葉をいち早くアジアからヨーロッパに運ぶために高速艇のカティサークが建造されるのが1869年。これも動力のないクリッパー(高速帆船)です。
蒸気船が日本にやってくるのは初めてでした。スクリューが導入される前の外輪型です。黒塗りの船体から巨大な煙突がそびえ立ち、石炭のボイラーから煙をもうもうと吐きだす蒸気船の異様な姿に、なにごとかと物見高い野次馬が集まり、幕府はとうとうアメリカ軍艦の見物禁止の触れを出さざるをえなくなりました。
そして半年後の翌54年1月、今度は計9隻で神奈川沖にやってきて、江戸湾深くにまで侵入してきます。前回、幕府に1年後の回答を約束させながら、半年後に、しかも9隻もの艦船でやってきたのは、早く回答せよとの圧力をかけるのが狙いでした。
江戸湾深くに侵入して脅しをかけられた幕府は、3月に日米和親条約を締結し、下田・函館港を開港してこれに対応しました。そして、そのあと、1858年日米修好通商条約に続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと条約を結び、翌59年には、函館・横浜・新潟・神戸・長崎の五港を開港します。
脅され、せかされた末の修好通商条約の締結で、したたかな相手の戦略に翻弄されて、条約の内容も、アメリカ側に領事裁判権(日本国内で、アメリカ人が起こした事件はアメリカ領事が裁判を行う権利を有する)を認め、日本に関税自主権がなかったなど、決して対等な条約ではありませんでした。
円―ドルの交換レートにしても不利な条件で妥結してしまい、明治政府はその後、1860(万延元)年の遣米使節団などでもこの条約の改正交渉に苦労することになります。
この時、幕府はいくつかの国と修好通商条約を締結しましたが、それで日本人の海外渡航が自由になったわけではありません。日本人の海外渡航禁止令は、解かれていないのです。5港を開港しての貿易、輸出入といっても、取引はもっぱら外国商人が日本の港にやってきて、5港で取引をするだけなのです。
当時、日本をめぐる情勢は決して安穏としたものではありませんでした。
1840年ころから盛んに欧米の船が日本の周辺を行き来し、国内ではこの対策が求められていました。オランダから入ってくる情報から、日本が技術的にも遅れていることに多くの藩も気づき始めます。開けた先進的な藩の首脳たちは、こうしたことに危機感を持ち、出島・長崎に人を派遣して情報を収集させます。海外の情報を集めれば集めるほど、進んだ技術や文化を学ぶ必要性を痛感します。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸