梶文彦の「ものづくり 日本の心」(20)|第二章 日の丸演説―日本のものづくりの出発点 〜発端は四ハイのジョーキセン〜
日本の産業の近代化は、黒船の来航がきっかけで始まりました。
後に鎖国と呼ばれることになる、江戸時代の二百数十年間、私たちは出島を通じてオランダと、さらに対馬や琉球を経由して支那や朝鮮とわずかに交易を行うだけで、実態は、ほぼ、世界史の舞台から隠れて、ひっそりと泰平の眠りを味わっていました。
その間、西欧では自然科学が学術的にも実践面でも大きく進歩を遂げていましたが、日本国内では相変わらず豊かな自然の恵みを受けて、四書五経を素読みで学ぶ世界にありました。
そんな状況の中、黒船がやってきて、門をたたきます。
ペリー率いる、四ハイの蒸気船が浦賀に姿を見せたのは、1853年6月です。ペリーは和親条約の締結と開港を幕府に迫り、1年後に回答するとの約束を引き出していったん日本を離れます。
その対応は、やさしく「コン、コン」とノックしたなどというヤワなものではなく、英語で何というかわかりませんが、訳せば「いつまで寝とるんじゃ。早よ、門を開けんかい!」という脅しまがいの催促です。
当時の日本は、寛永12(1635)年に武家諸法度で定めた「五百石積以上の軍船は建造してはならない」という「大型船建造禁止令」のもとにありました。大型の船を持つことは、兵站に大きな機動力を持ち、幕府転覆を狙う基になるとして、諸大名の反乱を恐れた幕府が大型帆船や軍船の建造を禁止していたのです。
そのため、せいぜい五百~七百石(積載量70~80トン)から千石ほどの大きさの、「朱印船」と呼ばれるジャンク型1本マストの「弁才船」が建造され、北前船などの内運に使われているにすぎませんでした。外国貿易が制限されていた状況では、大型の外航船の必要がなかったのです。
そんなところへ、突然、東京湾の入り口に、積載量2,450トン、乗組員300名の巨大な蒸気船の軍艦「サスケハナ」と1,692トン、乗組員260名の「ミシシッピ」が、大きな帆船プリマス(989トン、260名)、サラトガ(882トン、260名)を曳航して現れたのです。
「泰平の眠りを覚ますジョーキセン、たった四杯で夜も眠れず」と狂歌にも歌われた事件です。もちろん夜も眠れなかったのは幕府の首脳。庶民はその幕府のあわてぶりを、当時人気のあった銘茶「上喜撰」に引っかけて、4杯も飲んでは興奮して眠れないはずだ、と揶揄しています。
この川柳は、船の数をハイ(杯)と呼ばなければ成り立ちません。日本語はすごいですね。船の数を数えるのに、隻、杯、艘、艇、艦・・・といろいろ。さすがに大洋に浮かぶ島国だけのことはあります。
それがわからないと、この川柳の面白さは理解できません。このジョークを庶民が楽しんだということは、つまり、船の数を「杯」と称することをみんなが理解しているという前提で成り立っています。この庶民の知的レベル、リテラシーの高さ、この時代には世界有数と言っていいでしょう。
緊急事態の出現に、国じゅうが騒ぎ出すかと思いきや、あたふたと慌てふためく幕府を横に、庶民には幕府を茶化して笑い飛ばす余裕があります。じつに頼もしい限りです。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸