梶文彦の「ものづくり 日本の心」(17)|第一章「勤勉」は近代産業とともにやってきた 〜勤勉は近代産業とともにやってきた〜
時代からいえば、日本は一九〇五年に日露戦争に勝利して意気軒昂、まっしぐらに殖産興業、富国強兵で工業化・軍事力増強にまい進し、自前で軍艦の建造に力を入れていた時代です。長崎に造船所、横須賀に製鉄所(後の造船所)を開設し、呉に海軍工廠を整備し、国をあげて軍艦づくりを目指していた、まさにその時代の勤務実態がこれです。
挙国一致で増産を目指しているさなかの、その中核ともいえべき長崎造船所での職工の勤務実態が、欠勤率二一パーセントです。「勤勉」とは程遠い働きぶりです。
欠勤率が高い理由として、低学歴で、腕を持った職人と違って「職工は女こどものやること」という風潮が強く、まじめにやる対象と思われていなかったと書かれています。
こうした姿勢は、大正期に入ると、徐々に改善がみられるようになるのですが、少なくとも、明治時代には、生活習慣とともに、月―土で定時に勤務する工場労働の近代的な勤務形態に、労働者の意識が追い付いていないということができます。
また、離職率も同様で、「一八九八-一九〇二年には、長崎造船所では、在籍する労働者の六〇~八〇パーセントに当たる数の労働者が一年間に雇用され、退職していた。一九〇一年に行われた芝浦製作所、大阪鉄工所など全国一〇工場の勤続年数調査でも、一年未満しか在籍していない労働者の数が五〇~七〇パーセントであった。
・・・この状態は第一次大戦期まで続き、一九一九年の全国調査でも同じように六〇~八〇パーセントという高い移動率が記録されている。大工場の労働移動率が年間一〇パーセント程度に低下するのは一九二〇年代の後半になってからのことである」(『日本人の経済観念』)と言うのが日本人の勤務実態でした。
前掲の総合研究開発機構(NIRA)の報告書は、「明治、大正期においては、一部の基幹労働者を除き・・・自分の勤める会社に対する帰属意識も希薄で高い離職率と低い定着率」を示し、「勤勉性が本格的に形成、発揮されるに至ったのは第二次世界大戦後の一九五〇~五五年以降である」(『産業労働における勤勉性の研究』総合研究開発機構NIRA)としていますが、日本人が勤勉になったのは、どうやら戦後しばらくたってからのようです。
つまり、DNAのように思われていた日本人の勤勉さは、たかだかここ五、六〇年間に身に着けた習性にすぎないらしいということです。
「思春期は蒸気機関とともに発明された」といったのは、イギリスの社会心理学者マスグローブです。そのひそみにならえば、「勤勉」は近代産業とともにやってきたのです。
一七,一八世紀、産業の進んだ欧米からきた外国人たちの目に、産業の発達していない日本では、勤務が怠惰に見えたのはしかたありません。

梶文彦氏執筆による、コラム「ものづくり 日本の心」です。
梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています。
写真撮影:谷口弘幸